阪神・淡路大震災から10年

1995年、当時私は静岡県の会社に勤めていた。
その朝、同じ部署で同期のH君は、連絡の取れなくなった家族を案じて
実家のある伊丹市へ向かった。
数日後に職場に戻った彼(家は半壊、ご家族も怪我をされた)から聞く
被災地の模様は、連日ニュースで画像を見ていたにもかかわらず、私に
とって妙に現実離れした出来事に聞こえたものだ。
最寄り駅が無くなっていたとか、ビルが倒壊していたとか、自分の狭い
想像力では、実感することができなかったのだろう。


それから1〜2ヵ月後、仕事で大阪に出張する機会があった。大阪の中心
部は神戸ほど大きな被害は見られなかったものの、瓦が欠け落ちたまま
の家や、そこかしこに積み上げられた廃材の山など、爪痕はくっきりと
残っていた。
が、それより何より私が圧倒されたのは、その時その場にいた人たちの
パワーだ。
震災の直後から試運転を再開し、一駅でも二駅でも電車を動かした鉄道
マン、通行規制の掛かっている神戸市内に支援物資を運ぶため、警察と
大立ち回りをして、翌日(18日)には立入許可証をもぎり取ったトラッ
ク会社の社長、自分も被災していながら、休日は後片付けのボランティ
アをずっと続けている取引先の方などの話を直接、間接的に聞くに付け、
それが「関西人」特有のバイタリティーなのか、それとも「日本人」は
被災に強いのか、いやそもそも「人間」は打たれ強い生き物なのか、い
ろいろ考えをめぐらせてしまったものである。


前日TVで、神戸製鋼が構造不況と震災という二つの危機を乗り切り、新
たに電力事業を起して見事に再生したドキュメンタリーを見た。社員全
員が「圧倒的な危機感」をエネルギーに変えて立ち向かい、勝利したと
いう話は、意気地の無さでは自信のある私にとっては奇跡のような話で
ある。


会社を辞めて【いしかわや】をはじめて半年が過ぎた今も、私にとって
(被災した方と比べるつもりはありませんが)ある種の「危機」は続い
ている。
テンション上げて、必死の形相で頑張るってのは、多分私の性格では出
来ないような気がするので、地味にでもとにかく「続ける」ことを考え、
決してあきらめない、そんなスタイルで今年もやっていこう。
と、覇気に欠ける年頭の近いを立てる1月17日の夜。